東京散歩(25)その2・・・等々力渓谷の秋

田園都市線、等々力駅前には小体(こてい)ながら品のいい商店が並ぶ。

等々力渓谷は、東京23区内にあって山の手といわれる高級住宅街であるが、その中でもさらに別世界のような静かさと緑につつまれ川のせせらぎの音も聞こえる静寂なところである。Photo_2

等々力渓谷には、JR大井町から東急大井町線に乗り継いで行くもよし、渋谷から東急東横線に乗って6つ目の自由が丘で大井町線に乗り換え3つ目、等々力駅で下車してもよい。

等々力駅を背に南に向かって歩き一つ目の十字路に区の銘木百選に選ばれている「欅の大樹」が天を衝いて立つっている。これが最初の目安である。ここを右に曲がると橋が見える。

橋の名をゴルフ橋という。昭和の初期、この辺にゴルフ場があり、そこへ行くゴルファのために造られた橋ということから命名されたが、昭和14年にゴルフ場は閉鎖され橋の名だけが残っている。

ゴルフ橋右手前のラセン階段を降りると、ここが等々力渓谷の入り口である。この先1キロにわたって東京23区内で唯一残された渓谷「等々力渓谷」が続く。

いまの時季渓谷の両側から深緑がきれこんで崖の斜面を喬木、灌木、下草、苔などが埋める。秋色に包まれいる中、小川の流れのサイドを飛び石や木道づたいに歩く。

渓谷の下流は等々力不動の境内を鑓水となって流れ、左側の断崖は粘土、砂礫、赤土の地層があらわれて、その上部から男滝、女滝の二条の滝が落ちている。

これが不動の滝で、滝の前には宝珠閣、ここで金剛水の茶菓子(有料)の接待を受けられる。階段を上りきると、等々力不動の境内である。

石段の左方の坂道を下り、満願寺等々力不動公園をいったん目黒通りに出て北上。満願寺山門を左へ、右奥に御嶽山古墳を見て環8通りへ。今度は等々力渓谷を下に見て、玉川野毛公園に向かうことができるが、本日はここまで目黒通りを左へ折れて、再び渓谷入口から等々力駅に戻る。
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東京散歩(25)等々力渓谷の秋・・・その前に洗足池公園へ

今日は久しぶりの東京散歩である。
   洗足池公園   
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9月9日、ひぐらしの里への散歩以来2カ月ぶり、季節はまさに晩秋今や山は紅葉まっ盛りで処々方々からの季節の便りで満載である。

そんな中、今回は東京の西のはずれ世田谷へと足を踏み入れる。これまで東京散歩も回を重ねて24回、東京23区を一巡した勘定になるのだが、城西地区世田谷、杉並、中野というところは未だ未踏の地である。


今回は、その一つ世田谷へやってきた。おりしも紅葉の時期である。等々力渓谷の秋もまた悪くはあるまいとやってきた。JR大井町で東急大井町線に乗り換えて、緑が丘・自由が丘の先、3っ目が等々力駅である。

この辺は国鉄大井町工場在勤時代、よく遊んで歩いたところであるが、等々力渓谷は今回が初めてである。等々力駅から渓谷公園入り口までは3分、そこから渓谷沿いの道のりは約1キロである。
                        洗足池駅
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その前に、ついでのことだからというので、大田区北千束で下車「洗足池公園」に立ち寄ることにした。北千束には今は亡き叔母夫婦が住んでいて、大井町にいたころは大変世話になったことを思い出す。そんなこともあって心ひかれたのであろう。50年ぶりの北千束駅に降り立ったが、昔を思い懐かしさがこみ上げてきた。

北千束から約1キロ、都内のこんなところにこんな大きなj池がと思われるが、かっては大池といわれ灌漑用の水源として、この地の田んぼを潤してきた。地畔の風景は優美で、広重の浮世絵に描かれるほどの景勝地である。
今日は天気も良く池の周りには大勢の幼稚園児たちが遊んでいる。傍らあちこちで写生を楽しむ高齢の人たちが絵筆を動かしている姿が長閑である。
   洗足池
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洗足池の名の由来は、、千束の地の一部にあるため洗足と呼ばれるようになったといわれるが、日蓮がこの池で足を洗い、そのとき松の小枝に袈裟をかけたといわれる袈裟掛けの御松庵などがあり、日蓮にまつわる伝承が残されている。
                    日蓮大僧正立像
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   袈裟掛けの御松庵048_2

また、池のほとりには、この地を愛した勝海舟の墓や西郷隆盛の留魂祠・詩碑などがある。池の西北部一帯は桜山で桜の名所になっている。ここはやはり4月ごろが見どころのようである。今回は北千束駅から公園までの間、約1キロの道を歩いたが、本来は東急池上線洗足池駅下車徒歩2分というのが、ここを訪れる正規のルートである。
                       西郷隆盛「留魂碑」
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  勝海舟夫妻の墓

洗足池公園を後にして、東急池上線洗足池駅から五反田方面3っ目の旗の台で大井町線に乗り換え、本日の目的地等々力渓谷へ向かう。

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愛姫(めご姫)生誕の地・陸奥の国(むつのくに)田村郡(たむらごおり)三春(みはる)

三春町は、陸奥の国(むつのくに)田村郡(たむらごおり)に存する。
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その昔、中世以降この地を坂ノ上田村麿の後裔と称する田村氏が支配する。下野の国那須山を水源とする奥羽地方を仙台湾まで縦断する阿武隈川のほとり、郡山より東方三里ほどの地点にある。

戦国時代は田村氏の居城があり、広くこの地を領し義顕、隆顕、清顕と三代続いたが、豊臣秀吉の奥州仕置により改易となり、領地は伊達政宗領に編入され、家督もまた政宗がその手中に納め、結果的には田村領のすべては伊達家に乗っ取られた形になった。
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この奥州仕置により、宗顕(田村家三代目清顕の養子)以下、田村家中は失意のもと蒲生(会津)上杉(越後)相馬氏などに仕官し、また、この地に残って帰農したものもあった。

宗顕は改易後、政宗の庇護を断り、牛縊宗顕と名乗り隠棲したが、後に「めご姫」の意向で仙台藩領白石城主片倉景綱の姉・片倉喜多の名跡を継ぐことになる。

その後、めご姫の遺言により、政宗の子・伊達忠宗の三男宗良が田村家を再興し、岩手一関藩に移って、幕府の譜代大名(徳川家の要職を務める大名)となり、江戸城松の廊下で刃傷に及んだ浅野長矩の身柄を預かり、邸内において切腹させたことは有名な話である。

三春というところは阿武隈山地の西のはずれにあって、春には梅・桜・桃の花が一度に咲きほころび春がやって来るといわれるほどの穏やかな地である。

今ではかっての栄華を誇った頃の城下町の面影はなく、ひっそりとした小さな丘陵が重なり合った山間に町屋が立ち並ぶ静かな佇まいである。

この街のほぼ中心部に臨済宗妙心寺派の寺院。慧雲山・福聚寺がある。ここに田村家三代の墓がある。奇しくもここには我が家の先祖が葬られている菩提寺でもある。
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三春駅は、郡山市といわき市を結ぶ磐越東線に乗車して二つ目であるが、駅は街の中心部より外れ2キロほど離れた辺鄙なところにある。国道4号線から分かれる俗にニッパッパ(国道288号線)と呼ばれる三春街道は、4号線郡山富久山で分岐し、陣場、小泉、舞木、山田から三春に入り、船引、田村市を経由して双葉郡双葉町まで全長68キロに及ぶ幹線道路である。
   JR三春駅
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三春街道は、JR磐越東線と並行して走っているが、途中、山田あたりで別れ鉄道の線路は山間を通って三春駅へ、一方、三春街道は平坦地をたどって三春の中心部へと通じている。

明治24年から大正4年、国鉄が開業するまでの約4半世紀の間、郡山まで馬車鉄道が活躍していたが、どうして鉄道の駅が街の中心地からこれほどまでに離れたところに造られたのかはわからない。たぶん立地条件がそうさせたのであろう。

私が小学生のころ母親に手をひかれ、この三春の駅から福聚寺まで毎年幾度となく墓参りをしたことを覚えている。今ではさほど遠いとは思わないが、子供のころは随分遠いところを歩かされたものだということが記憶に残っている。

三春町の中心街の中央大町や中町に入る手前に蔵造りの街並み荒町があった。この辺一帯には商家が立ち並び職人街でもあった。その一画に私の生家があり、生業は繭問屋であった。

現在の県道40号線に面した商家の当時の造りは、間口が狭く、奥行きの長い建物でウナギの寝床と呼ばれ、表通りから裏の通りの路地まで土間つづきの細長い家であった。
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私が生まれた昭和7年(1932)は、昭和の大恐慌の真っただ中であった。ニューヨークウォール街の株価暴落に端を発する世界金融恐慌の影響で、我が国の経済は大きな打撃を受け、とりわけ農村にあっては米の価格とともに、当時日本の主要輸出品であった生糸の価格の大暴落で多くの零細企業は倒産した。街には大勢の失業者があふれ、農村も困窮のどん底にあえいでいた。

その煽りで零細な繭問屋の我が家もひとたまりもなく没落し、その家も人手に渡った。私にはわが家のそんな惨状までは全く記憶にはないが、その家の前を通るたびに兄などから聞かされ、その無念さを思い知らされたものである。

私は生まれ落ちると同時に母の実家に家族もろとも移り住むことになった。三春と隣接する巌江村舞木(もうぎ)というところである。ここで少年期を過ごすことになった。
   JR舞木駅プラットホーム
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めご姫米沢城へ輿入れ、藤次郎との心の契り

広蓋の上には、皆朱の美しいままごと道具が並べられている。

膳の上には、椀類が揃っている。めし櫃、重箱、茶道具などのほかに雪洞(ぼんぼり)や、朱毛氈(しゅもうせん)の上に桜や橘などの花木が彩りを添えて並べられている。

めご姫は、その一つ一つを手に取り、
「まあ、ほんとうにきれい !! 」

藤次郎は、その「めご姫」のうれしげな姿を見て
「気に入ったか」

「はい、幾とせ後々までもありがたく」

藤次郎
「それはよかった。よいか、その膳をもって父上、母上への孝行にはげめよ ! 」
さらに藤次郎は
「それを立派に使いこなせるようになるまで、わしもまた、両三年伊達家の主たらんほどに文武に励み申そうぞ」

そして、そのあと、藤次郎は隻眼の顔を、あえて「めご姫」に向けて言い放った。
「めごや、藤次郎の顔を見や」

姫は広蓋から目を離し、藤次郎の顔をまじまじと凝視する。だが別段変わらぬ眼差しである。三春を出るとき父清顕に聞かされてきていたのであろう。

「めご姫の三春にも、福達磨はあったであろう」
「はい、高柴のデコ屋敷に伝えられる民芸の中にありまする」
「達磨はの、初め手にしたときに片目を入れる」
「は、・・・はい」
「その、藤次郎は、まだ片目なのじゃ、もうひとつの目は今は母に預けてある」
「・・・・・」
「藤次郎が、いずれ世の役に立つような働きをすれば、こちらにその目が入ることになろう、わかったか」

さすが「めご姫」は、それには答えなかったが、しかし、わずかにこうべを垂れてうなずくように動いた。
(若殿様は、今一番お辛いことをおっしゃっている)のだということが、胸の内にひしひしと切なさが伝わってくる。

「わしは、まだ一人前ではない。母が一日も早く、この藤次郎に目を入れ点睛下さるよう姫からも祈ってくりゃ」
「は、・・・はい」

父輝宗や老臣基信が、このことを聞き、若の成長に目を見張ったのは言うまでもない。ある種、虎哉和尚の口車に乗せられて、この縁談をすすめてきたかに思われなくもなかったが、藤次郎のこの裁きを見て「う~ん」と唸ってしまった。

藤次郎の母「義姫」は、何においても、わが実家「最上家」が第一で、伊達家に嫁いでも折あらば伊達家もろとも最上家へ寝返ってしまおうという魂胆があった。それがために伊達の嫡子藤次郎を目の敵にして当たり散らし、一方二男「小次郎」を溺愛し、ゆくゆくはこの子に跡目を継がせたいと思っていたのである。

だが、このような母を藤次郎はこれほどまでに慕い、これほどの配慮ができるというのはなんという器量であろうか、父輝宗は、わが子の成長にぐっと胸が熱くなり、天晴れなわが子を見ながら喜びがこみ上げてきて、大はしゃぎである。
「さあ、今宵はめでたい。みなの者、ご酒下されじゃ、若のため、姫のため無礼講でよいぞ !! いやあ、芽出度い、芽出度い !! 」

こうして、「めご姫」は、無事伊達家の次世代藤次郎の正室として輿入れしたのである。

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死んで花実が咲くものか。

生きていてこそいいときもあるが、死んでしまえば何事もおしまいである。

故中川昭一元財務相の葬儀が、本日東京港区麻布善福寺で執り行われた。多数の政財界人、文化人および一般の参列者を含めおよそ3000人を超える人たちが、生前の中川氏の活躍を偲び別れを惜しんだ。

しかし、なぜか「北海のヒグマ」と呼ばれ、将来の総理と期待された、父中川一郎氏の不慮の死と重なる。父一郎氏が札幌パークホテルのバスルームで首つり自殺した原因については、今もって確たる原因がわからない。

1982年10月、時の首相鈴木善幸が退陣を表明したことを受け、鈴木、福田、二階堂の三者会談で、福田総裁、中曽根首相のいわゆる「総総分離論」を提唱したが、これを中曽根が拒否し、政局は一気に総裁選へと突入した。

このとき総裁選に立候補したのが、中曽根康弘、河本敏夫、安倍晋太郎、そして中川一郎であった。11月24日の予備選の結果、田中、鈴木派の支援を受けて中曽根内閣が誕生することになるのだが、このとき中曽根は田中の前で土下座して三拝九拝して懇願したとことは、いまも語り草として記憶に残る。

一方、中川一郎は田中角栄に対し「池の鯉一匹飛び跳ねてもいいか」と迫ったという。田中角栄は「跳ねてもよかろう。だが、再び元の池へは戻れぬ覚悟はあるか」と、暗に総裁選出馬を強くいさめたという。

翌1983年中川一郎は、札幌で自害した。前年の総裁選での惨敗が影響したのか、睡眠薬を多用していたといわれている。そんなところをみると、そのよって立つところの理由は異なれ、因果は巡るのだろうかと、いまさらながら昭一氏の死がシルエットとして浮かび上がってくるようである。

「栄枯盛衰」は世の習いというが、先の衆議院選挙は、自民党の大惨敗に終わった。戦後60年人間で言うなら還暦の年である。政治の世界も生まれかわるときが来ていたのであろう。自民党もここでしっかりと過去を省みて生まれかわらなければなるまい。

平家物語の冒頭にある「驕る平家は久しからず」今こそ世のすべての人々が、このことを自覚すべときではないだろうか。

故中川昭一元財務相のご冥福をお祈り申し上げるものである。合掌

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「めご姫」米沢城へ入る。独眼竜政宗と初対面

米沢の東方、桑折から逢隈川を隔てた梁川には、伊達家の砦があった。ここで三春の使者向館内匠の手から、「めご姫」は伊達家に引き継がれ、双方冬の旅路の温めの祝い酒を酌み交わしたあと、花嫁御寮の行列は、伊達家の宰領遠藤基信に率いられ米沢へと到着した。

その間、「めご姫」の乗った輿の戸は閉ざされたままであったから、一同花嫁の顔を仰いだのは米沢城の大広間に移ってからであった。花嫁は型どおり舅、姑そして花婿の藤次郎政宗へと挨拶を終えて静かに綿帽子を脱ぐ。一瞬大広間は、緊張のしじまに包まれたが、瞬時にそこここにかすかな喜びの声が漏れる。

なかでも藤次郎の乳母政岡は、周りをはばかることなく思わず讃嘆の声を発した。
「まあ、お可愛らしい !! 」

それは、決して大げさでもなければ、誇張でもない。われを忘れて一瞬にしてその感情が口を衝いて出た言葉であった。その瞬間姑の「義姫」がすっくと立ち上がって、
「ややこじゃ、まだ早い !! 」

時鳥の声を思わせるような鋭い声で言いのけた。
「まだまだねんねえじゃ ! 祝言は両3年お預けじゃ、その間、母のわらわが、仕込もうぞ・・・・・しかと申し渡す。よいな藤次郎」

今回の藤次郎の縁談については、夫「輝宗」と息「藤次郎」が決めたことで、母である「義姫」は一切かかわり合いがない。そんなことが内実面白くないのであろう。
「政岡、三春の姫は、今夜からわらわの側でねかすよう」
と言いつけ、くるりと背を向けて、さっさと裾を蹴って奥の間へ去ってしまった。大広間に控えていた面々は顔を見合わせあっけにとられていた。

考えてみれば無理もない。藤次郎にしたところで未だ13歳、まだ大人とは言えないし、まして12歳になったばかりの「愛姫」である。成長著しい当時の姫御とはいえ、うっすらと女らしさが出てきたというよりは、まだまだ愛くるしさが先に立つ。早いと言われれば、確かにそうに違いないが、とはいってもことここに至って、わざわざ二人を別棟に住まわすというのも酷な話である。

母「義姫」の振る舞いを目の当たりにして、藤次郎政宗は「めご姫」を気遣ってか、基信をさし招き命じた。
「これ基信 !! 姫に藤次郎からの祝いの品をこれへもて」
「かしこまりました」
基信は、白い覆いをかけた大きな広蓋(縁のある漆塗りの大きな盆)に載せた贈り物を、姫の前へ捧げた。
「若殿からの引き出物でございます」

「かたじけなく頂戴いたしまする」
先ほどの姑の異常な所作を、どう見たのか、無造作に白布を取り除いた「めご姫」は
「まあ、きれい ! 」
と、ひとみをかがやかして、この京人形のような姫もまた、姑に劣らず傍目も構わぬ鷹揚さで奇声をあげる。人々の目は、期せずして愛くるしい姫の仕草と、姫を驚かせた広蓋の上の贈り物に集まる。

それは藤次郎の曾祖父稙宗が、和歌山の根来の塗り師を招いて作らせた皆朱(赤色の漆塗りにした器物)の見事な「ままごと道具」であった。なんのことはない当今の雛飾りの道具である。

これを見た父輝宗は、(なるほど、これでは若もまだ子供だわい)と、ホッとして、これならば夫婦としての実際の契りの祝言を両3年伸ばしたところで四方角は立つまいと思った。

しかし、その後の藤次郎政宗の「愛姫に対する応対ぶりに輝宗や基信までもが驚かされることになる。子供々々と思っていた藤次郎の成長には目をみはらせるものがあり、行く末の戦国武将としての片鱗をのぞかせていたのである。

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藤次郎政宗と愛姫の婚礼

藤次郎とめご姫の婚礼は、政宗自身の差配によって、天正7年(1579)5年11月28日米沢城で執り行われることになった。

二人の間に生まれた子の一人は田村家がもらい受け三春藩を継がせるという盟約があったのだから、当時の勢力図からすれば、「愛姫(めごひめ)」に三春をつけて伊達家に献上したようなものである。

伊達家としては藤次郎の発案で、三春ともども三国一の花嫁を手に入れることになるわけだが、そのことによって、三春藩内部の反対派も一挙に逼塞し、また相馬や芦名にも伊達の力をを誇示することになる。

しかし、この藤次郎の器量については、虎哉禅師の計らいで、父輝宗の見識として世間へふれさせた。このあたり藤次郎の慢心を心配してのことであったのだろう。

人間の大成に害となすは年少のおりの思いあがりであり慢心である。虎哉禅師は、そのことを警戒し、いよいよ婚礼の近づいたある日、藤次郎を資福寺の方丈(住職の居室)に呼びつけた。

「さて若よ、いよいよ三春の姫の輿入れも近づいてまいりました。若は女子の扱いは知るまいが?」

「はい、女人については母よりほかには・・・}

「さもあろう。わしも、なにぶん持ったこともないので教えようがないが、わしとて女子が欲しくて欲しくてたまらぬ時期があった」

「それがなぜ?」藤次郎は、あまり関心もなさそうな顔で聞き返す。

「そのことよ、欲しいものが他にありすぎた。しかし、一度にみんな欲しがってもせんないこと、一つずつ順にもらっていこうとしたので、女子は後回しになってしまったのじゃ」

「すると、いまだに?」

「そうじゃ、人間欲しいというものあらば、そうたやすくあきらめてはならぬ。夢は追い続けるものじゃわい。だが、若はこれから世に立つご仁じゃ、一つのことに目を奪われてはならぬ」と言いつつ、続けて

「このわしから一つだけ教えておかねばなるまい。よいか、貰うからには寝ねばならぬ。若にはよって立つお家の隆盛と子孫繁栄を成し遂げねばならぬ定めがある」

「そうじゃ !! 、男の面目にかけて女子と寝る。今のところ女子は奥方のみ。よいか奥方と寝ても、奥方のおらぬところや男の戦陣などでは決して寝てはならぬ」

「仮に、どのような睡魔に襲われようとも敵前で体を横たえてはならぬ。つまり、寝るという姿は奥方以外には見せてはならぬ。それが戦国に生きる武将の姿。このことを努々忘るるなかれ」

虎哉禅師が、藤次郎の婚礼に際して語って聞かせたことと言えば、たったこれだけであった。藤次郎は、虎哉の視線に隻眼をもって、どうやらこの師は、自分が三春の姫に惰弱な男として侮られることを心配しているのだろうと睨みかえしていた。

政宗は、生涯七十の死の床に就いてからも、他人の前では決して横臥しなかったという。必ず起きて面接し、柱を背にしてでも座り続け応対したといわれている。虎哉禅師の教えは、彼をしてかように意志の強固な人間に育て上げていたのであろう。

さて、11月28日当日、三春藩田村家老臣向館内匠の一行に見守られ、送り届けられた「めご姫」の輿は、米沢藩老臣の遠藤基信に引き渡された。

基信は、福島と山形の県境の米沢の東方、桑折から逢隈川を隔てた梁川まで出迎えた。花嫁の行列に万一のことがあってはならぬとあって、父輝宗の計らいで基信に二百ほどの軍勢をつけて出迎えさせた。

11月の下旬、まだ根雪は降ってはいなかったが、ここは雪国、四方の山々は真っ白な雪に覆われていて、輿の中では12歳の花嫁が小さく寒さに震えていた。

「やあ、よう来られた。いや、お芽出とうござる。お待ち申しておりまいた。さあさあ、まずは迎え酒を」篝火の傍に輿をつけさせ、基信が一行を迎えた。

ここで、戦前子供のころに目の当たりにした村の若者たちの婚礼を思い出した。

東北地方には婚礼の日に新郎側からの先乗りが、花嫁の実家との中間点まで出迎え、「太郎(新郎の名前)の嫁っ子がきたぞ~」と、道々酒を振舞いながらふれまわる「籠馬(かごんま)」という風習があった。

今では結婚式もすっかり近代化してしまい昔からの風習は無くなってしまったが、昭和30年代のころまでは自宅での結婚式が多かったから、そんな風習が残っていて花嫁は籠ではなく牛の背にゆられて嫁入りしてきたものである。

「めご姫」は籠にのって米沢へと嫁いだわけだが、誰よりも早く顔を見たいというのが人情というもの、今も昔も変わりはない。基信が大きな銅釜にわかした濁り酒を汲んで「めご姫」に近付こうとすると、

「これこれ、その甘酒はわしが進ぜよう。大事な花嫁御寮に近付くまいぞ」と内匠がさえぎる。向館にしてみれば日本一の美女の顔を花婿に先んじて見せてなるものかというわけである。

こうして「めご姫」と「藤次郎政宗」が、以後60年にわたって波乱の人生を送る出会いということになるのだが、この後の話は、いずれ、またの機会に・・・・・

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伊達藩嫡子「独眼竜政宗」・三春藩田村清顕の一人娘「めご姫」の婚姻の日取り。

<政宗の婚姻がいよいよ現実のものになってきた>

藤次郎政宗に問われて、父輝宗は苦り切った表情で、そなたの縁談で三春から使者が参っているのだが、「この者なかなかの一徹者で基信も手を焼いているようじゃ」と答える。

それを聞いた虎哉禅師が、「ほほー、それはなかなかおもしろい。殿 !! ここは若の縁談にござれば、藤次郎殿ご自身に仕切らせてみてはいかがなものでござりましょうか !? 」

子供から大人への移り変わる大切な時期、自立心を養うにはもってこいの教材であるとでも思ったのか、虎哉禅師にそう言われてみると、輝宗も 「それも一案かな?」 思案顔になる。

「一案どころか、またとない機会でござる。頑固一徹の他家の老臣をどのようにして裁くか、これからの世の移ろいに身をおく、若の処世術の試金石にござりましょう」

なるほど、輝宗は、言葉のつぎほもなく、そうかもしれぬとその気になる。
そこで 「よいか、思案に余った時は、基信ともよくよく相談してやってみよ」というとになった。

「藤次郎一人で十分でござりまする」
と政宗が答え、胸を張り、口をグッとへの字に結んで、まだしきりに基信とやり合っている三春の老臣のいる客間へと向かった。

客間へ入った藤次郎は立ったまま「予が政宗じゃ、はるばる大義であった」と声をかけ、その場に控えている基信に向かって、「・・・基信、話は予がきく。さがってよいぞ」と手を返す。

さて、それから一刻たっても戻ってこない。一同心配しているところへ戻ってきたときには、もう燭台に灯りが入っていた。

「どうした藤次郎 !! 」父輝宗が声をかけると、
「話はつきましてございます。今宵は資福寺に泊まって、明日三春へ帰えられるようにとり計らいました」

「なに !! して嫁御の話は !? 」

「はい、11月28日に決めました」

「何 !? 11月28日にもう一度話に参ると言うのか」

藤次郎政宗はゆっくりと首を振り
「いいえ、その日が今年一番の吉日とか、その日を選んで祝言の日ときめましてございます」 
その言葉に「な、なんと、おこと,それは本気か !! 」 輝宗はいきり立った。

そのやりとりに基信がとりなすように割って入った。
「若 !! そのわけを承りましょうや、このご縁談、お父上の大殿はもとより家臣一同首をかしげるにござりませぬ。たしかに三春では喜びもしましょうが、なれど、そのためにわが藩一同の不満を御一身に浴びては、若にとっては、大きな損失を浴びることになりかねませぬ」

「そのことにお気づきなされませぬか」とたたみかける。

藤次郎の隻眼がぎょろりと光った。
「基信 !! それは、そちの考えだが、わしはそうは思わぬ」
基信は、なお不満そうに輝宗の袖を引くようにして、何か言ってくれというように顔を向ける。

それにも構わず藤次郎が言い放つ。
「確かに、三春は小勢ながらもこれまで戦に負けたことはないが、そんな小藩をわざわざ敵に廻すこともあるまい。わしは、もっと大きな敵が欲しいのじゃ」

「大きな敵とは?」

さよう、わしは相馬や田村のような、いつでも落とせる小さなものを、わざわざ敵にすることもあるまいと思っている。このようなものは、争うより味方にすることじゃ」

「それに、三春の姫は、婿はわしでなければならぬと言ってきている。あれを貰いば、存分に芦名や佐竹を敵にできるからの・・・」

基信はあきれ顔で
「芦名や佐竹を敵に廻すおつもりで」

「できればのう、芦名や佐竹との縁結びでは、この藤次郎米沢の狭い領国に蟄居せざるをえまいが、心おきなく会津や常陸を敵に廻し、その戦いに勝てば、奥羽はもとより天下国家にのりだすための足ができようというもの・・・・・」 藤次郎政宗の野望は大きい。

「なるほど、苦労ならば買ってでもしようもの、その心根は勇ましい。しかし、いまだにわが足元も定まらぬではないか、そうした時期にわざわざ芦名や佐竹を敵にすることもあるまい」輝宗が口をさしはさむと

「仰せのとおり、信夫、伊達、相馬は、まだ鎮定できておりませぬが、わざわざ小さな戦いで戦力をすり減らすより、今は大きな戦いに備えて戦力を蓄えるべき時かと存じます」

「なれば、そのことのために三春と手を組むと・・・・・」

「いや、基信やお父上は、手を組むとお考えなさるが、藤次郎はそうは思えませぬ。一人娘をあずかることによって、戦わずして三春を手に入れることができる。これもまた戦略かと存じまする」

最前からことの成り行きを、じっと見守っていた虎哉禅師が、ここで口を開いた。
「これで、勝負あった。若の勝ちでござる」、さらに笑いながら「不服の方々には、人質祝言とでも言って聞かせれば問題はありますまい。われらはこの祝言に大賛成でござる」

虎哉禅師の最後の断で、伊達政宗藤次郎と三春藩「めご姫」との結婚は天正7年(1579)11月28日の吉日、執り行われることになった。

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忙中閑あり

朝夕めっきり秋らしくなった。
食欲の秋、スポーツの秋、読書の秋、、秋の彼岸を挟んでシルバーウィークの真っただ中・・・いよいよ紅葉の秋、行楽の秋がやってくる。

体調もまずまず、これからも週に一度の東京散歩を続けようと気負い、また、いろいろなことに挑戦しようと思っている。
そんな、これからの外でに備えて、この一週間は、家にこもって英気 を養うことにした。

だが、家にいればいるで、やることもなく時たまパソコンを開くぐらいで気を紛らわせている有様である。

あまりの暇にまかせ、退屈しのぎにこんな画像を作ってみた。(画像の上でクリックして見てください)

Photo

                                                                                                                                                                                                    最近あまり見かけなくなった虹だが、「JTrim」を使って虹の枠を作り、そのなかに、先日散歩に出かけ、「ひぐらじの里(日暮里)」で撮影してきた本行寺(月見寺)の写真を、はめ込んだものである。これでもなかなか手の込んだ作品である。

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三春藩老臣向館内匠と米沢藩老臣遠藤基信、両家縁組の駆け引き始まる

三春藩の老臣向館内匠は、藩主田村清顕の名代として一人娘「愛姫(めごひめ)」の売り込みに米沢城へ乗り込んでいくことになる。

米沢へ着くと、当の藤次郎政宗はいつものように資福寺の学問所に出向いており留守であった。そこで居合わせた伊達家老臣遠藤基信に面会を求め、客間へ通され、「実は、この度、われら主人田村大膳大夫より言い付かって参ってござる」と切り出した。

遠藤基信は、「何事でござる」と、不審そうな顔を向けると、向館内匠が、「あいや、正直に申し上げまするが、わが三春藩の姫は、ほかに比類なき日本一の姫君にござる」・・・ 基信は、ますます怪訝な顔で、「なんと言わっしゃる?」と内匠を見やる。

それにも構わず、「いや都にあっても、おそらく人々もふりかえるほどの嫋女なるわが姫は、われら家臣一同自慢の姫様にござる」

「はぁ? なんと言わっしゃると !! 」
遠藤基信、ますます訳もわからず、ただただ聞き入るばかりである。

「歌も詠ずれば琴も弾き、香もきけば、茶も立てまする。何よりもそのお人柄は、まさにお優しくわれら家臣にすら、いつもニコニコと菩薩のようなお心で接し、怒った顔をついぞ見たこともござらぬ」
向館内匠は、いやはやここを先途と米沢までの道すがら、いろいろと思案してきたのだろう一気にまくしたてる。

「そこで、まさにお似合いかと存じて申し上げまするが・・・・・」
遠藤基信たまりかねて、「ちょっと、話の途中ではござるが、その美しい姫様が、なんとお似合いなのでござる?」

と、声をかけられ、話を折られた内匠は、ハッと顔色が変わった。いくらわが姫の売り込みに来たとはいえ、当の婿となる藤次郎政宗のことについては、何一つ褒め言葉も、ましてや肝心の姫の嫁入りのことには、少しもふれていないことに気が付いた。

基信も、そのことに思い当ったのか、「はて、それがしはまだ、三春の姫様は天下にまれな御方とは承ったが、それがいかがなされた」

「さよう、わが姫は噂以上のお方でござる。そこで早急に話をまとめたいと存じてまかりこしたしだい・・・・・」
「して、なんの話でござるか?」
「決まっていることじゃ、縁談でござるわ !! 」とここで、ようやく内匠が話の本題に入ったのだが・・・・・

「縁談 !? すると、今までの話は・・・・・」

「さよう !! 縁談でござる。当方にはさしたる条件はござらぬ。わが愛姫は、只今12歳なれば結婚したとしても、すぐにお子が生まれるとは思わぬので、しばらくはお待ち申そう。また、最初にできたお子をとは申さぬが、何番目のお子でもよい。とにかく一子男の子をいただきたい。この義について、しかとご承知おき願いたい」と、いっきにまくしたてた。

なんのことはない、「愛姫」を差し上げる代わりに、政宗と愛姫の間に生まれた男児を三春藩の世継ぎにもらい受けたいというわけである。内匠の、この一方的な申し入れを聞いて基信は目を丸くして驚いてしまった。

遠藤基信伊達藩の勘定奉行であるから、多少人情には疎いところがあっても経理には賢い。基信は三春が、ここまで意気込んできたのには、何かわけがあるのだろうと思い。しかし、田村ではこちらが損である。どう考えても間尺に合う話ではないという計算が成り立つ。

そこで、とっさの思案で彼は巧みにとぼけることにした。
「さようでござったか、しかし、そこもとが婿は13歳と言わしゃったが、当方は12歳でござるが・・・・・」
「いや13歳でござろう」

と、ここで基信は、意外なことを言う。
「いや、12歳でござる。13歳の若君は総領の藤次郎政宗どので、弟君の小次郎(二男・竺丸)どのは12歳でござる。

「なに、遠藤どの !! 誰がご舎弟どのと縁組したいと申したぞ !! 」
「はて、そこもとは婿に欲しいと言われたではござらぬか、仮にも藤次郎さまは伊達家の跡取り、いかに三春の姫が類い稀なる嫋女であろうと・・・・・」

「あいやしばらく、それがしは婿取りにきたのではござらぬ、三春の姫を藤次郎若君の正室として娶ってもらいまいか」 と、田村の名代としてまかり出てきたのだという。

どうやらこの老臣二人、基信も内匠も戦国時代の武辺者、意地っ張りで、へそ曲がりときているから、さっぱり話が合わず埒が明かない。

この日は、ちょうど仲秋の十六夜(いざよい)一日遅れの名月を惜しんで、米沢城では歌会を開くことになっていた。そこに資福寺の虎哉和尚も招かれていて、藤次郎ともども帰城していた。藩主輝宗公がなにやら気難しい顔をしているのを見て政宗が「お父上、なにごとでござりまする」と問いかけた。

ここから事態は、意外な方向へと展開する。

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